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下村治博士・宇沢弘文先生について

設備投資研究所でのこれまでの研究活動においては、下村治博士と宇沢弘文先生の存在が大きな支えとなってきました。

下村治博士は初代所長として研究所の設立と初期の活動に対して指導的な役割を果たしました。2010年に下村治博士生誕100年を迎えました。

宇沢弘文先生には、シカゴ大学から帰国された直後の1968年から2014年まで、当研究所の研究活動にさまざまな形で関わっていただき、アカデミックでリベラルという設備投資研究所の性格を形作っていただきました。

下村治博士について

下村治博士は、1910年(明治43年)に佐賀市に生まれた。1934年に東京帝国大学経済学部を卒業し大蔵省に入省した。学生時代に経済学を志したのは、当時の世界恐慌のもとで窮乏状態にあった国民の救済に関心があったためである、と伝えられている。1936年大蔵省から派遣され、ニューヨークで海外経験を積んでおり、このときケインズの『一般理論』を入手した。戦前・戦中の大蔵省では、会社経理統制令にもとづく賃金・物価の統制を担当したが、この経験から統制経済はうまくいかないことを実感した。終戦直後は、経済安定本部物価局に所属し、インフレーションの克服に注力した。インフレ抑制に関して、下村博士は、需要抑制を優先する一挙安定論者と異なり、生産回復が物価安定をもたらすとして、政府の中間安定路線を支持し、復興金融金庫の融資活動に一定の意義を認めた。この拡大均衡という考えは1960年代の高度成長論へと発展して行くのである。

下村博士は1948年に病のため一時休養を余儀なくされたが、病床でまとめた学位論文「経済変動の乗数分析」(1951年)は、画期的な水準の論文として学界の注目を集めた。戦前の統制経済の苦い経験に加え、この論文の完成を通じ、下村博士は自由主義経済に対する自信を深めたと思われる。その後、次々と日本経済に関する重要な論文を発表し、エコノミストとの間で成長論争を引き起こし、経済政策をリードした。

大蔵省時代の下村博士は、日本銀行政策委員や財務調査官などを歴任したが、一貫して日本経済のマクロ分析と政策について発言を続けた。大蔵省という公的機関に所属しながら、エコノミストとして独自の立場を貫いたのであり、それは、高度成長理論に対する並々ならぬ自信があったのに加え、座右の銘として「思い邪なし」を堅持していたためであろう。大蔵省退官後は、日本開発銀行理事、設備投資研究所初代所長となり、エコノミストとして常に注目され、高度成長の教祖としてカリスマ的存在となった。下村所長のもとで、研究所のなかには厳しさと同時に自由闊達な雰囲気が醸成されたのである。

高度成長の結果として日本経済が欧米先進国へキャッチアップするのをみて、1970年代初めには成長減速論を唱えたが、1973年の第1次石油ショックを契機に一転してゼロ成長論を提示した。さらに1980年代前半では世界経済の不均衡拡大の主因が米国の財政赤字にあるとして、また80年代後半の日本経済のバブルの原因が金融節度の喪失にあるとして、経済運営の節度の重要性を主張した。下村理論の特色は、時代を展望するビジョンにもとづき国民経済としての日本経済のあり方を考えた骨太の経済政策論にある。

堀内行蔵[著]『下村治博士と日本経済―高度成長論の実践とゼロ成長ビジョンの含意』、xv--xvi頁、日本政策投資銀行設備投資研究所、2007年、に著者が加筆したものを著者の承諾を得て転載。

下村フェローシップ(Shimomura Fellowship)について

設備投資研究所では、初代所長であり著名なエコノミストである下村治博士を顕彰して1990年に下村フェローシップを創設し、外国人客員研究員を招聘しています。

このプログラムは、わが国の経済・産業等の研究に意欲を有する外国人研究者を受け入れ、設備投資研究所での研究活動や共同研究を通じて優れた研究成果を得るとともに、国際交流・相互理解を深めようとするものです。

詳細はこちら(英語)

下村治博士 著作関連資料について

一橋大学経済研究所附属社会科学統計情報研究センターでは「下村治著作関連資料」を公開しています。

これは、設備投資研究所が下村博士の歿後に「下村治博士著作集」(私家版)を作成するにあたり、ご遺族から提供された資料を中心とした約2,000点の資料を同センターが分類・整理した、貴重なコレクションとなっています。

また、同センター内の展示コーナーにおいて「孤高のエコノミスト 下村治」の展示も行われています。

一橋大学経済研究所附属社会科学統計情報研究センター

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宇沢弘文先生について

宇沢弘文先生は、1928年(昭和3年)に鳥取県米子市に生まれた。東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、1951年に東京大学理学部数学科を卒業し、数学科の特別研究生となった。数学から経済学へ転じたのは、河上肇の『貧乏物語』を読み感動を覚えたからと言われている。とくにその序文に引用されているジョン・ラスキンの言葉“There is no wealth, but life.”「富を求めるのは道を聞くためである」に経済学を学ぶときの基本的姿勢を見出し、大切にしていた。

スタンフォード大学のケネス・アロー教授に送った論文が認められ、1956年に研究助手として渡米し、スタンフォード大学、カリフォルニア大学で研究活動を行い、1964年シカゴ大学経済学部教授に就任した。シカゴ大学時代には全米から優秀な大学院生を招いてワークショップを主宰し、多くの研究者を育てた。参加した大学院生のなかからはノーベル経済学賞受賞者を含む超一流の経済学者を何人も輩出した。

1968年に東京大学経済学部に戻り、1989年退官した。2014年9月18日没。日本に帰国以来50年近くにわたり日本政策投資銀行設備投資研究所顧問を務めた。

一般均衡論、均衡の安定性、二部門成長モデル、最適成長理論、消費・投資関数など理論経済学の分野で先導的な研究者として数多くの卓越した業績を残し、日米で主要な学会の会長を務めるなど多くの要職を歴任した。また、その功績により1983年に文化功労者となり、1997年には文化勲章を受章した。公害問題や環境問題にも早い段階から着目し、水俣病問題や成田問題の平和的解決などにも取り組み、現実社会に向き合う姿勢を重視した。

自然環境、インフラストラクチャー、金融・医療・教育などの制度資本からなる社会的共通資本の理論的研究にも精力的に取り組み、持続可能な社会の実現に向けて数多くの著作を発表した。2009年には、地球環境問題解決に著しい貢献をした個人・団体に贈られる、環境分野では世界最大規模の国際賞である「ブループラネット賞」を受賞した。