DBJの航跡
DBJの歴史は、まさに戦後復興からの日本の歩みそのものです。
時代背景の中でDBJがどのような活動を行ってきたのかを年代別にご紹介しています。
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DBJの歴史は、まさに戦後復興からの日本の歩みそのものです。
時代背景の中でDBJがどのような活動を行ってきたのかを年代別にご紹介しています。
1951年、終戦から6年後、日本政策投資銀行の
前身である日本開発銀行が誕生した。
日本の経済・産業を自立させるために。
日本の未来の礎を築くために。
1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、占領軍による統治から独立すると、日本経済を持続的な成長の軌道に乗せることが課題となった。当時の通産省では、同年2月に産業合理化審議会が「わが国産業の合理化方策について」を答申。経済の自立を達成するために、電力・海運・石炭・鉄鋼という4つの産業の合理化と、これに必要な資金の確保が産業政策の中心的な課題とされた。
かかる状況下、日本政策投資銀行の前身となる日本開発銀行が51年12月に設立。「長期資金の供給を行うことにより経済の再建及び産業の開発を促進するため、一般の金融機関が行う金融を補完し、又は奨励すること」(日本開発銀行法第1 条)を目的とする機関として発足した。設立から55年頃にかけては、もっぱら電力・海運・石炭・鉄鋼など基礎的産業を対象とし、融資の大部分をこれらの産業に振り分けていた。
56~58年度の日本開発銀行の基本方針※は、産業基盤の安定強化及び新規産業の育成を基軸とし、電力の増強、外航船舶の整備、鉄鋼生産の増強と合理化、石炭鉱業の合理化、機械工業の合理化、新規産業及び新技術工業化事業の育成をかかげていた。
59年度になると「国民経済の質的改善」という目標がかかげられ、「産業の体質改善」「産業間・地域間の均衡ある発展」という新たな融資分野が加わった。これは、日本経済が戦後の混乱を克服した一方、量的拡大の追求の過程で生じた地域間格差の是正や産業体質の強化を課題とする新たな成長段階に入ったことを反映していた。
貿易の自由化とそれに続く資本の自由化を控えた60年代前半には、諸産業の国際競争力の強化が政策金融上の重要課題となり、日本開発銀行に求められる融資の内容も多様化していった。例えば、63年度には国産技術の工業化を支援するための「新技術工業化」融資の拡充が図られた。
また、同じく新しい融資分野として「地域開発」が登場したのもこの頃。財政資金の効率的運用という観点からも地域開発に関わる政策金融は一元化が望ましいと判断したことなどによってこの分野に進出した。
※大蔵省銀行局長通知による「政府資金の産業設備に関する運用基本方針」
川崎製鉄(株)[現 JFEスチール(株)]:千葉製鉄所建設(千葉県)
戦後初の高炉建設による鉄鋼業の近代化
九州電力(株):上椎葉水力発電所(宮崎県)
生活・産業の基礎エネルギーである電力の増産
日本電子計算機(株)[現(株)JECC]:国産電算機普及促進
国産コンピュータ産業の育成と機器の普及の促進
吉田工業(株)[現 YKK(株)]:黒部工場(富山県)
地場産業の振興
高度成長期を迎えた日本。
世界と戦うための技術育成に融資。
日本開発銀行はこの国の原動力の一翼を担った。
1966年度以降の財投計画策定にあたっては、住宅など国民生活環境の整備拡充、社会開発の推進、低生産性部門の近代化等について、資金の重点的・効率的運用を進めることが政府方針の基本とされた。
このような状況下、同年度以降の「開銀資金運用に関する基本方針」において、「技術開発の推進」という文言が追加され、「大都市再開発および流通近代化」という新しい項目が登場した。わが国は戦後、生産体制の近代化を進めてきたが、資本自由化など本格的な開放体制への移行の中で浮上した問題が技術開発力の後れであった。他方、都市の過密、道路・交通事情の悪化、これに関連する流通の非効率性や物価の上昇等の問題は年々深刻さを増し、政策金融の新たな課題となるに至ったのである。さらに70年度以降、公害問題の深刻化を反映して、「公害防止」が加えられた。
融資分野に関しては、融資対象に「石油」が登場した。エネルギー革命が世界的に進行し、石油への依存度が急速に高まるのを受け、民族系石油企業の基盤の強化、石油備蓄の促進が政策上の重要課題となったことに対応したものである。70年度には石油は電力と共にエネルギーとして特掲業種として扱われることとなった。
国際競争力強化のために企業規模の拡大などを通じて量産効果を期待し得る設備投資を対象とする「体制整備」融資は63年度に開始されたが、対象業種を石油化学・乗用車・特殊鋼、さらには繊維やアンモニアにまで拡大した。また、技術開発の推進への要請が高まる中で、68年度には従来の「新技術工業化」に新たに「商品化試作」が加わり、さらに「重機械開発」を統合し「国産技術振興」融資制度が設けられた。
70年代を迎えた開銀融資は、かつての基幹産業重点型の構成から多様な政策目的に対応した構成となり、中でも地域開発(都市開発を含む)が全体の3分の1を占める柱となった。また、この時期には「体制整備」「国産技術振興」「公害防止」など、複数の産業に関係する融資が多くなった。
日本鉱業(株)[現 ENEOS(株)]:水島製油所(岡山県)
国内石油企業の育成
大同特殊鋼(株):知多工場建設(愛知県)
特殊鋼の生産体制の整備
九州日本電気(株)[現 ルネサス エレクトロニクス(株)]:熊本工場(熊本県)
集積回路(IC)工場の建設による地域の振興
近畿日本鉄道(株):都心乗入れ(大阪府)
大都市圏の交通ネットワークの整備
喫緊の課題であったエネルギー政策での目的達成後、
技術開発の推進、
都市の再開発と機能整備等に
重点をおくようになった。
高度経済成長を経た1972年、日本開発銀行法が改正された。第1条の目的が「産業の開発及び経済社会の発展を促進するため」に変更され、業務範囲を定めた第18条に「産業の開発の程度が低く、その振興を促進する必要がある地域において大規模な工業基地の建設事業を行なう者に対し、大蔵大臣の認可を受けて、当該建設事業に必要な資金の出資をすること」が追加された。これは都市再開発を促進しようというものである。
日本開発銀行の73年度の基本方針では、融資重点事項に都市開発、地域開発、公害対策などの社会開発分野が先頭におかれ、次いで社会インフラ、最後に産業開発がおかれた。特に「産業体制の整備」の文言が削られ、「技術の開発および産業構造の知識集約化」に改められたことは、貿易・資本自由化への対応に注力した60年代との決別を意味した。こうした中、75年度には社会開発分野を中心として低成長経済へ適応し、産業構造の転換への対応を積極的に支援した。
また、第一次石油危機は新たな政策課題を突きつけた。76年度には、第一次石油危機の影響が深刻化し、エネルギー問題への対応が急がれた。77年度以降になると構造不況への対応も急務となり、融資分野を再編することが試みられた。こうした努力を経て79年度には資源エネルギー対策を重点とする方針が明確になり、ことに代替エネルギー利用促進に特別低利融資制度が設けられたことは画期的なことであった。
81年度以降の基本方針では、資源エネルギー、技術開発・産業構造の知識集約化、貿易物資の安定供給の確保が、都市開発、地方開発、国民生活改善の前におかれるようになる。成長率低下の中で、社会開発推進の基盤である産業構造の転換と産業の活性化にも注力しようとしたものである。
そして、石油依存度の低下を目指した資源・エネルギー政策が一応の目的を達成したと目された83年度には「政策金融機関として“顧客にとって必要な銀行”」というコンセプトを重視。蓄積されたノウハウを社会に還元する、いわゆるインテリジェンス・サービスの強化・促進がうたわれた。金融自由化の進展にも備えて技術開発における非設備資金、社会開発プロジェクト等への融資機能の強化、資金調達の多様化など次の時代に備えた模索が始まったのである。
関西電力(株):姫路LNG発電所(兵庫県)
LNG受入れ基地と火力発電所の建設
東洋曹達工業(株)[現 東ソー(株)]:苛性ソーダ製法転換
化学工業における無公害製法への転換促進
新都市センター開発(株):多摩ニュータウン(東京都)
郊外ニュータウン内のショッピングセンター等施設整備
住友電気工業(株):光ファイバーケーブル製造技術企業化
先駆的な光ファイバー技術の企業化
プラザ合意、バブル景気とその崩壊、長期不況。
急激に変貌する経済状況の中、
日本開発銀行の役割も大きく変わった。
1985年の「プラザ合意」以降の日本経済は、円高不況から円高好況、平成景気、バブル崩壊、長期不況と大きな振幅を描いた。
日本開発銀行では、87年度に内需主導型経済への移行という経済構造調整の課題に沿った「産業構造調整の推進」に加え、国鉄の民営化に伴う「基幹鉄道網の整備」を重点分野として設定。91年度には次世代の産業・社会インフラである情報・通信の整備を支援するため「情報・通信基盤の整備」が新たに重要項目に加えられた。また、91年度に国民生活の基盤充実という課題にあわせて、「生活・都市基盤の整備」が重要項目の上位に位置づけられ、94年度にはその第一に挙げられた。
80年代後半に資金量が伸び悩む中で、資源エネルギー関係のウエイトが大きく低下し、基幹交通体系整備や情報通信などの新しく立項された分野が大きな意味を持ちはじめた。
そして、91~93年度の3年間、政府による大型経済対策を受けて日本開発銀行の融資活動は大幅に拡大した。92年度には、増資財源を活用した超低利融資の第1号として「輸入体制整備」融資が始まった。その後、超低利の対象は、電線類の地中化、運輸関連施設のバリアフリー化及び情報化への対応、阪神・淡路大震災の復旧等へと拡大されていった。一方90年代後半には、民間銀行の「貸し渋り」に対し緊急的対応を行った。このように90年代の日本開発銀行は、長期の平成不況や金融システムの不安定化など経済全般に関わる問題へと取り組みの対象を広げた。
しかし、景気対策等で融資規模が拡大し、一部に民間金融機関との競合も懸念されたため、日本開発銀行は業務のスリム化が求められ、そして「簡素・合理化」から「開銀廃止・新銀行設立」へと事態が急展開した。
(株)横浜国際平和会議場:みなとみらい21(神奈川県)
ホテル、オフィス、国際会議場などを備えた新都心「みなとみらい21」の建設
プラス(株):前橋工場「プラスランド」(群馬県)
地域に開放された環境調和型工場(ニューファクトリー)の建設
(株)後楽園スタヂアム[現(株)東京ドーム]:東京ドーム建設
大規模空気膜構造物の新技術企業化
東京瓦斯(株):燃料電池
環境にやさしい新型発電技術の導入
日本開発銀行が役割を終え、
新たな時代に向けて日本政策投資銀行が設立された。
1999年10月1日、日本開発銀行および北海道東北開発公庫の一切の権利と義務が承継され、日本政策投資銀行が設立された。新銀行の目的は、「経済社会の活力の向上及び持続的発展」「豊かな国民生活の実現」「地域経済の自立的発展」の3本の柱で規定されている。日本開発銀行の目的にあった「産業の開発」は新銀行法ではなくなった。「産業の開発」という戦後の復興や経済成長を目的とする段階は終了したのである。これに代わって新銀行法では「経済社会の活力の向上」という市場経済の活性化を含意する一般的な表現になっている。このように新銀行法では3本柱を目的規定に書いたうえで、「一般の金融機関が行う金融等を補完し、又は奨励することを旨とし、長期資金の供給等を行い、もってわが国の経済社会政策に金融上の寄与をすることを目的とする」(新銀行法第1条)となっている。つまり、民間金融の補完・奨励それ自体は目的ではなく、政策を遂行する銀行としての目的が明確にされている。
新銀行設立後は、「地域再生」「環境」「技術・新産業創造」の3分野を重点分野とした投融資活動を実施。「地域再生」では、地域金融機関との連携を深めつつ、地場企業の事業再生等に、「環境」では世界初の「環境格付」の手法を活用した融資の実施とその普及、「技術・新産業創造」では、中堅企業等の技術事業化や新技術開発・ベンチャービジネス等への支援にそれぞれ取り組んだ。また、これらの分野でのソリューション提供を推進すべく、プロジェクトファイナンスやPFI・PPP、事業再生ファイナンスなど新金融手法を開発し、新たな金融市場の創造・活性化を進めていった。
旧(株)新潟鐵工所
地場企業の持つ優れた技術や雇用の維持を図りながら事業再生を支援
阪急電鉄(株):震災復旧事業(兵庫県)
震災により破壊された交通インフラの復旧を支援
DBJ環境格付融資
DBJが独自に開発したスクリーニングシステムを利用した世界初の融資メニュー
(株)パスモ
交通機関の利便性を一新したICカード「PASMO」の開発
危機対応業務が義務づけられるとともに、
日本企業の競争力や地域活性化への対応が強化された。
2008年10月1日、特殊法人から株式会社化(民営化)され、「金融力で未来をデザインします」という企業理念のもと株式会社日本政策投資銀行が設立された。産業金融の中立的な担い手としてお客様と社会の課題解決を目指し、長期の融資業務に加え、メザニン、エクイティなどのリスクマネー供給や、M&Aアドバイザリー業務など、「投融資一体型の金融サービス」という独自のビジネスモデルを定めた。また、日本への知見還元等を企図し、海外業務への本格的な取り組みも開始し、海外向け投融資体制の基盤整備にも着手した。
一方で、株式会社化直後より、わが国ではリーマンショックや東日本大震災など未曾有の有事が立て続けに発生し、危機対応業務の着実な実行が求められた。リーマンショックによる世界的な金融危機では、社債市場の機能低下に伴う企業の資金繰り悪化等に迅速に対応。東日本大震災に際しても電力会社向けを中心に他の金融機関等と連携しながら適切に対応したほか、被災地域の金融機関と共同して設立した「東日本大震災復興ファンド」を通じてリスクマネー供給に取り組むなど、積極的に支援を実施した。
また、危機対応業務とともに、わが国の成長戦略に対するDBJ独自の取り組みも積極的に行い、13年には「競争力強化ファンド」を立ち上げ、新たな価値創造や企業価値向上を図る企業に対するリスクマネー供給の強化を図った。
15年には、こうした危機対応業務における的確な対応やわが国金融資本市場の課題である成長資金供給への取り組みなど、株式会社化後のDBJの歩みを踏まえ、根拠法である「株式会社日本政策投資銀行法」が改正。これにより、当分の間、DBJに対し危機対応業務が義務づけられるとともに、「特定投資業務」が創設された。これは「競争力強化ファンド」を強化・発展させる形で、国から一部出資を受け、成長資金を集中的に供給する新たな投資の仕組みで、わが国企業の競争力強化や地域活性化への取り組みがさらに強化された。
17年、DBJグループ企業理念体系の再整理を行い、長期ビジョン「ビジョン2030」を策定。DBJの不変の社会的使命と中長期的な外部環境・社会的課題を見据え、「インフラ」「産業」「地域」の3領域をDBJ グループの重点領域と定め、2030年の経済・社会において、事業や市場の創造と危機時の対応の両面から独自の役割を果たす将来像を設定した。21年には「第5次中期経営計画 つなぐ、共につくる ~Innovation for Sustainability~」を公表。コロナ禍からの回復・成長と持続可能な社会の実現に向け、様々な事業会社や金融機関等との連携・協働を重視しながら、リスクマネー供給やナレッジ活用を強化。また、ビジョン2030、更には2050年のサステナブルな社会の実現に向けた具体の戦略として、「GRIT戦略」を策定。足下では、コロナ感染拡大に伴う影響からの回復や外部環境の大きな変化を受け、第5次中期経営計画の残る3年間で特に強化するポイントを示すため23年に「第5次中期経営計画 強化・見直し」を公表した。
デクセリアルズ(株)
機能性材料で世界有数の技術を有する同社の事業拡大を支援
(株)Vリース
日本の航空機産業の更なる発展を支援
日本水素ステーションネットワーク合同会社(JHyM)
水素社会実現に向け、金融力を通じて支援
スペースワン(株)
新世代小型ロケットの事業化による国内宇宙産業の発展を支援